「音楽命!!」という人を見ると、好ましく思える反面、とても視野が狭い人だという印象も受ける。
「なにも興味の対象を一つに絞らなくても・・・・」と思っちゃうからだ。
一方、僕にとっての「音楽」とは、
好きな学問分野の一つであり、表現の場を与えられている意味でアイデンティティーの一つである。
まあ要するに僕の中身の一端を担っている「部分」でしかない。
しかし、興味分野の一つでしかない「音楽」に対してどれだけコミットしているかという意味では、誰よりも真摯であると自負している。
例えば、「音楽とは」という問いは、「芸術とは、表現とは、(音楽を形成する)社会とは、バンド(組織)とは、鑑賞者と表現者(主体客体)の関係とは、音楽教育とは、 音階、メロディとは、リズムとは、ジャンルとは、音響とは、スピーカーとは、聴覚刺激とは、脳への影響は、」といった様々な問いを内包する。
そして、そのような疑問に本気で立ち向かっている僕は、「音楽命!!」と言っている多くの人たちよりも、よっぽど音楽に対して真摯だと言えないか。
うん!!言えるよね!!!
そして、そうやって「音楽」をあらゆる側面から捉えて掘り下げたことで、僕はいろいろな事柄に対して、深い洞察力も得たし、また自分の中で情緒とかセンスとか、そういう根源的な「何か」がドラスチックに改変されたと思う。
生き方が変わった。見えてる世界の色が一変した。
また、そういう主観的な要素より、客観的な部分、つまり「能力」も向上した。
「人間は平等だ!上も下もない以上、「能力」なんてものは存在しない!」と言われそうなので、
ここで能力について少し補足する。
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人間というワードの定義が、人と人との関係性の中で見いだされるモノだとすれば、
「社会」を生きる上で必要な「能力」こそが、人の格を決定することが出来るモノだと言える。
それは、簡単に言うと「社交性」だったりするのだが、例えば作家の斉藤孝氏は、「できる人」の基礎力として、「まねる盗む力」「段取り力」「コメント力」を取り上げている。私の言葉に置き換えると、「トレース能力」「論理力」「発進力」となるのだが、どれも人間を相手にした「関係」で必要な能力だ。
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これらは、あくまでも社会を構成する人間としての客観的な能力なので、個人が主観的に人生を楽しめるか否かという点から見れば、一面的な「能力」でしかない。
話を戻して、音楽は、そういった「能力」をもぼくに授けてくれたと感じている。
表現者の心に寄り添って聴く、トレース能力が身に付いた。
このブログや人との会話において、ぼくの音楽に対する考えを出力する過程で、自然と思考の機会が増え、論理力、発進力もついた。
僕の主観的な世界を美しく改変し、社会にコミットするため入り口も提示してくれた、「音楽」に心から感謝する。
僕は、功利主義、快楽主義であるのだが、快楽の「質」を重視する。(J・Sミル)
なので、寝るのも楽しいし、食べるのも楽しいし、オナニーするのも楽しいのだが、
それよりもっともっと脳天直撃な快楽を欲する。
それを追求するには、本を読み、人と話し、究極の快楽を求めて向上しなければならない、
向上心をもっていろいろな事に取り組むことによって、その過程でどんどん自分の世界が広がる。
その行為自体、今も未来も同時に楽しめる、質の高い快楽だ。
だから、みんなにも今の楽しさに安住しないで、もっともっと楽しい事を見つけて欲しい。
例えばそれは、音楽を掘り下げることだったりするんじゃあないのかにゃ???
っていうか、この文章、20分で書いた推敲なしのチンコ文章なので、がんばっておれの考えを読み取ってね!!!みんながんばれ!!!
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