僕は、「自分はこうこうこういう者です。」と説明することができない。というか、そうやって自己を定義化して自らの可能性を限定してしまいたくない。よく聞く「自分のことは自分が一番わかっている」という言葉は、死ぬ間際の人がフィジカルな意味合いで使用する分には理解できるが、一般の人には当てはまらない言説だと思う。
「各人がそれぞれ自己自身にとってもっとも遠いものである。」
ーニーチェ
自分の考え方や価値観なんて、毎日毎分変わるものだ。毎日何かに感化されてる僕にとっては、毎秒と言ってもいいぐらいだ。一ヶ月前の僕と、今の僕じゃあ、根本に持つ行動倫理がガラリと変わった。ベンサムの快楽重視の功利主義から、ミル寄りな功利主義、そっからぶっ飛んで今はモダンな構造主義でございます。世界の見え方が一変しました。
昨日のおれは、今日のおれとは全く違う。生物学的に言っても、自分の体を構成する原子分子は一年もすればスッカリ入れ替わってしまうものらしい。物質的にも自分という存在は、常に変貌を遂げている。
それでも端から見れば、普段となんら変わりないいつもの僕である。なぜか?
それは、人間性と価値観とは全くの別モノだからである。
人間性は感覚的、価値観は理性的。
だから、感覚的な自分を、理性でどうこうしようとしてもすぐには変わらない。
「きっぱりと決まった人間性というものは存在しない。父子関係の情のような、人体のなかにすでに刻み込まれてしまっているようにみえる感情でさえも、本当は制度なのだ。」
ーメルロ・ポンティ
理性を司るわたしは上にいて、下の感覚的な<わたし>を、操り人形の如く動かしている。
上のわたしはすぐにでも変化する存在だけど、下の<わたし>は変化が遅い。
<わたし>を、対峙する人間、状況、環境にうまくフィットさせてやる。
それがわたしの使命だ。
先生の前の<わたし>と友達の前での<わたし>じゃあ、声のトーン、目の開き、すべて別人のようだ。
そのときその場所での<わたし>はそれぞれ違う様相を見せるのはごくごく自然なことだ。みんな、無意識のうちに感覚的にやっている。
その事実を認識してやろう。
そして、意識的にやってしまおう!
今述べたように、<わたし>はとても柔軟な存在だ。
対話する人間の意識に深く入り込み、彼の世界を感覚的に感じ取る。
そうすれば、いろんなことが楽しめる筈だ。
<わたし>のメタモルフォーゼ。
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