ぼくはいつも批評的なことを書くときには、第一人称や文体が堅苦しくなることが多いんだけど、
そういう文章を書くときは、やはり啓蒙的な意味合いも含んでいる。
変な行動ばかりとるオレ自身が珍しい人種だと思われがちだけど、おれのような変なことをやっている人はたくさんいるし、そういう人達が作り上げた、みんなが知らない世界をオレは知っていて、だから決してオレ一人だけではなくって、アンダーグラウンドな所には全てが繋がっていて、大衆的、表面的な世界を、下で支えるとてつもない大きな世界が広がっていて、そういったものを知るっていうのは、知性や感性とは別に、データとして了解するっていう意味なので、レベルをあげろって言うんではなくって、相対的に自分の興味の対象なり、もっと言えば自分自身について考える機会を与えたいというだけなのです。
みんなと違うことをやるっていうのは、みんなと同じものをやるよりも段違いに楽しいことだったり、お金がかからなかったりして、みんなも絶対にやるべきだと思ったから、こういうパブリックなスペースにテクストを置くっていうのはある。
批評っていうこと自体、過去を洗いざらいにして、そこから新しい領域に挑むためのツールを作るっていう側面もあって、良い悪いは感性や価値観とは別個の場所にあるんだと思うし、そういったツールは至極客観的なものでなければならないんだけど、何も知らないうちからはツールも持てないと思うし、
何をするにしてもツール(方法論)は自分の中で構築しておかないと、利便性という点において、とても実利的な見方、やり方ができないので、人生損をするんじゃないのかな。と。
コアな領域を知るっていうことは、全てにつうじるツールを得るために必要なことだと思う。
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