大友良英の本を読み返していたら、音響派についての文献の中で、興味深い考察がなされていた。
吉村光弘さんの、「音響(派)の定義 と 大友良英の在り方」というようなテーマで書かれたその文章は、佐々木敦を引用した斬新な切り口で音響に立ち向かっていた。
そもそも、音響(派)とは、音をそのコンポーズの手法(組み立て方)よりも、テクスチャーに省略した「聴取」の次元で捉えようとした音楽の形式だと言われている。
つまり、音を感覚的な体験として捉えるもの(鑑賞者主体とも言える)ということだ。
吉村氏はここに、新たな要素を付けたし、音響(派)が「外部性」との「関係性」において捉える表現形式だとした。
例えば、OFFSITEという周囲が住宅地で囲まれた、壁の薄い小さなフリースペースでの日本特有の音響(派)の演奏では、(クレームがあるため)小さな微音でしか演奏できない。それゆえ、外の音までもをその音楽として内包するのだ。
よって、外部にある無秩序なものを内在化する音楽形式なのだ。
そのような音楽を演奏しつづける、大友良英自身の生き方も、そのような外部性に対しての捉え方と共通している。
彼はグローバルに活動の幅を広げているので、周囲との軋轢や齟齬は必ず存在するのだが、そのような「不可能性」をも彼はすんなり受容してしまう。
また、知的障害者とのワークショップでの演奏など、自分の領域からかけ離れたモノとも即座に共存してしまう。
つまり、とことんまで柔軟でありつづけているのだ。
彼のそのようなある意味音響的生き方を読んで、ある一説を思い出した。
フランチェスコ・アルベローニという人の「混乱を受け入れる人」という文章。
((創造的な人物とは、無秩序を秩序化できる人を言う。))
という言説だ。
全く大友良英のことをさしているではないか。
あああああ練習まで時間ないよー。20分ではかけませーん、、
あと、最後に大友さんは吉村サンの文章を批判的に受け止めてます。ブログで。
http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/20070730
はい!!!今度ちゃんと書き直そう。じゃあ行ってきます。3週間ぶりの練習!!!1
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無題
2007/11/27(Tue)18:47
成人式、なんかやるかーーー。
向こう帰ったら相談やな
ほんと昨日は謎のシンクロだったな笑
偶然を超えた、既存の真理だけじゃ説明のつかない“何か”の存在を認めざるを得なかった瞬間や。
No.1|by 長人|
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