イマラチオ!!!!!!!!!
この世に観念しか存在しないんなら、それを社会によってむりやり食わされてるんなら、人生はイマラチオ!!!!
はい、また学校ちょっとサボっちゃって、
爆笑問題「ニッポンの教養」の前々回録画したヤツを観た。
内容は美術史のエライ教授のお話だったんだけど、
なんか、美術は哲学の影響を大いに受けるんだなぁと感じた。
例えば、絵画では、西洋における人間中心主義が流行った時代(それがいつかはわからないけど)には、<空間>に重きを置いた作風が流行ったが、その風潮の影響を受けない遠い島国の日本では、<時間>に重きを置いた作風がずっと主流だった。
音楽の分野でも、フィリップ・グラスが、仏教やサミュエル・ベケットの影響受けたり、あ~~日本のブラフマンはきっとなんちゃってだな^^;
えーーじゃ芸術は、文化的スタンスに影響されるのかいな???
ここで、「音楽には意味があるのか???」という、音楽批評家にとってはとても重大な問題が浮上してくる。
だって、音楽がただの「音」でしかないのなら、そこに哲学なり主義なりの「意味」を付加することは不可能なのだから。
FADER最新号に掲載されているbattlesのインタビューを引用しよう。
イアン・ウィリアム:「僕はそもそも、曲に意味があるという概念が理解できない。音楽に意味を関連付けることが理解できないんだよ。音楽は、振動とハーモニー、そしてエネルギーであって、ロジックや言語を超えたものだと思う。認識能力を超えたものだと思うんだ。」
タイヨンダイ・ブラグストン:「僕は逆に、音楽を言いたいことをつたえるための道具として考えてるから、音楽に意味を付け加えることに興味があるんだ。音楽に対してエモーションなつながりがあるんだよ。」
イアン・ウィリアム:「僕は想像上の深みより、表面に興味がある。これはモダンな考え方で、表面こそがリアリティという考え方。つまり”カンバスに描かれたペイントが絵である”という考え方なんだ。だから僕は、”音そのものが曲である”と考えてる。聞こえてくる音そのものが曲なんだよ。だから別れたガールフレンドについての曲とかは嘘っぽく感じる。僕の前の彼女が誰なのかなんてだれも知らないわけだし。」
おおー親愛なるtoeの山嵜さんもイアンとほぼ同じ事を言ったぞお。
イアンはポストモダニズムな考えですな。オタク文化も理解しそう。
要するに、イアンは音は音じゃん!!!!楽しめや!!!!って言っている。
よーし、ここで話は飛びまくって、言語と感覚のおはなし。
ソシュールの言語論では、日本語が母国語な人と、英語が母国語な人で見える世界がまったく違うものになると考える。
つまり、言語も感覚的なものということだ。
じゃあ、音は?????
アーティストたちは、確信犯的にではないにしろ、無意識のうちに自分の世界を音で奏でているのではないだろうか。
意味(感情)は、感覚的に、曲に付加されているのだ。
それを鑑賞して、そいつの世界観を読み取ろうとする行為、意味として文章化する批評家の行為は、至極まっとうな行為であると言えないだろうか。
構造主義的な立場からなら、感じ方は人それぞれ違うじゃん!!と言えるかも知れない。
でも、極めて客観的な文体なのになぜか作品の魅力を余す所なく表現する佐々木敦さんの文体を見ると、誰もが納得する見方っていうのがあるんだ!!と思わされてしまう。
ああああああ変な方向に行き始めたのでこのへんで。
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