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退屈は最大の罪である。

                              by スタンリー・キューブリック

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2025/05/11(Sun)15:20

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怠惰の狭間

2007/11/13(Tue)02:53

細木数子に泣かされる梅宮アンナにズキュン!!!!

・・・・・井深です。





なんか、最近物書きにハマってます(デジャヴ???)

みんな見ないでください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ヒマ」と「メンドクサイ」のジレンマに苦しむ若(バカ)者たちへ・・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

怠惰に美徳なんてない。

めんどくせーって言ってるヤツを見ると、最近けちょんけちょんにしてやりたくなります。

情熱がない。アホがうつる。

逆に、なにかにマジメ、一生懸命になってるやつって、「なにか」を持っている。

「なにか」は、センスだったり、情緒だったり、共感能力だったり、そういう生きる上でとても大事なものなの。

マジメなやつを見て、「なにが面白いの?つまんねー」とか言ってるハゲは今すぐに死んでください。

なにも本気で打ち込めるものを持たない最近の一部の大学生は、ホントに話していてもつまらないです。死ね!!!





こんな極論を暴露するのは、ぼくが超絶ストイック&情熱家&ポジティブマインドだからなんですけど、ほんとに調子に乗ってごめんなさい。

でも、ちょっと前までは、ぼくも怠惰そのものだったんですね。

でも、気づいた所からすぐさま変えていく。「めんどくさい。ねむい。つかれた。」はラディカルな意味では絶対に言わないようにしたんです。

したっけ、なんま世界が色を帯びていった。超広がる。ワイドテレビ。

おれの世界を見れたら、きっとみんな「やべえここ!!ディズニーランドばりに面白れー!!」って言うでしょう。

それぐらい面白い。人生。うっひょーう!!!




傲慢だったり、調子乗った発言だとはわかっています。

でもそんなぼくは、今に安住しません。

音楽でも、バンドでも、読書でも、物書きでも、おしゃべりでも、常に上を目指します。

世の中の面白い事、全て吸収して、みんなと共感したい。

そう思います。リアルに。




怠惰であることを自虐して、アイデンティティーを保つ。

「今日学校いかんとパチスロ行ったけど、いいしょ。アホで結構、コケコッコー。」

シネーーイ!!!





それは、もう悪循環そのものですね。

どんどん腐りますそんなヤツは。なんの価値も生成、産出できない。



怠惰→自虐→「改変!!!!!!」これなんま大事!!!!

自虐止まりのアホは死んで。

自分を戒めるのは結構。でも変えて。変えてって。




バルス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!








このようなすばらしい生き方をしている人もいますという
とんでもなく有り難い動画

http://jp.youtube.com/watch?v=jh3WKsRCAH0





あーー・・・・・って、こんなアホな事を書いている自分を戒める、文章です。あくまでも。
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No.93|Comment(1)Trackback()

金太郎さん

2007/11/10(Sat)16:44






修一とインフルエンザの予防注射に行ってきた。

待ち時間にサラリーマン金太郎を読む。



改めて、金ちゃんの生き方にものすごい感動を覚えた。

曲げてはいけない信念と、状況に応じて自分を変える柔軟性。

そのバランスを感覚的に習得している。




男のためには男をはる。・・・・かっこいい。

そんな事を言える作者もきっと、男の中の男なのだろう。



無免で750cc乗り回していた、隣の修一も、ある意味では男なのだろうw。

反面教師でしかなかった修一が少しカッコ良く見えた。



世の中には、修羅場というものがある。

誰もが避けたいその修羅場をくぐり抜けて来た者だけが、持ち得る「なにか」がある。

それは、感受性かもしれないし、センスかもしれないし、粋かもしれないし、情緒かもしれない。

修羅場や挫折の中で、自分の奥底にあるその「なにか」に気づける人が、「真の人間」なんだ。

そういう人は、人の気持ちがわかる。

その場に応じた適切な判断もとれる。

周りに流されない。

怖じ気づいたり、ヘナヘナしたりしない。

スナオで、落ち着いて、凛としている。




そう人を僕は何人もしってる。

トモミや、ショウサン、シューヘイ、井上、増田サン、吉野サン、みんなぼくの憧れの存在だ。


尊敬できる人を見つける、そして彼らの中に共通している「なにか」を発見して、自分のものにする。

それこそが、向上心じゃないのか。

No.90|Comment(6)Trackback()

情緒。

2007/11/10(Sat)00:21

情緒は論理の初めにあるものです。

つまり、発進力です。

バイトの増田さん、吉野さん、菊池は、情緒はんぱない。



田舎育ちの人は情緒が発達しているから、話していても「返し」とかがうまいんだ。

(情緒については国家の品格の知識です。)



芸術とか、そんなもんへ!!とか言う人は死んでしまえばいいんですけど、

ぼくはなんかいろんなものをコアな部分まで掘り下げようとして、

入力と出力の量を増やしたら、とんでもないコアな感動に巡り会えた。

漫画は松本大洋、絵画はベーコン、音楽は未だにtoe、envyがマックスw

どうしようもないぐらいに、感覚的な部分で揺さぶられたんだ。



そのうちに、きっと情緒が発達したんだと思う。

言葉が溢れてくる。



一日のブログの量。行動の量。人との会話が深化、建設的になる。

おもしろいことも言える。 



楽しくてしかたがないんだ。毎日。

だから、こうして書く。



未来の自分がこんなに広い視野を持てなくなるのがコワいから。



今の自分が二次曲線バリに進化しているから、止まりたくないんだ。

何かを産出したい。

そして、できれば共有したい。

そう思うんだ。


No.87|Comment(0)Trackback()

独居の力

2007/11/03(Sat)06:31

ハイおはよう!!!!!

キッチリ3時間しか眠ってないです!!

ハイ?ええ、快調ですハイ。眠く?あハイ眠くないです。全く。いやホントに。ハイ。



とりあえず初日はクリアですね。明日からどうなることやら〜。


うほ。目ぇメチャメチャさめちゃったので、最近思ったことでも書こうかな。





「KY」という言葉について。

いやね、ぼくこの言葉ものすごく嫌いでして。(と言いつつまあ全然使っちゃうんですが。。)

嫌いというよりむしろ、こんな言葉が流行ってしまう日本の現状に問題アリだと思うんです。

まずはコチラをご覧ください。(大阪大副学長、鷲田清一のお言葉)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070420/1177093181

なるほど!と思ったらコッチもチャレンジ!!
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061226/1167151875

いかがです?

孤独と独居。とりちがえてませんか???

大学生にもなって、中学生みたいにツルんでいるやつを見ると、「孤独を勘違いしていらっしゃるなあ・・・。」と感じてしまいます。

かくいう僕はかつて中学生の頃、いわゆるイケてる組に属してまして、けっこうワルな集団の端っこのポジションを担っておりました。

笑うタイミングを見計らって笑う、お笑い番組のサクラばりのSE担当でした。

ある日、「こいつらと一緒におって、自分、楽しいん?」と自問自答したところ、「アカンわ!」・・・即刻ヌケることが決定しました。

そのとき誰もぼくを引き止めてはくれませんでしたね。仲間0。

イケてる組は、自分の居場所じゃありませんでした。




今あなたが属しているその集団は、自分の居場所だと言えますか?ええ?

ぼくはバンドという集団に入ってますけど、バンドは自分の良さを最大限に生かせる場だと思っております。

なぜなら僕という存在はそこで必要不可欠だからです。

でも、ヨサコイみたいな集団にはあまり惹かれません。なぜなら、「一人くらい抜けてもバレんのとちゃうん?」・・・・一人一人の存在価値が希薄に思われてしまうからです。

みんな、自分が自分でいられる場所にいてほしい。

少なくともぼくは、人と話すとき、僕との会話が相手にとってそういう場であってほしいと願います。



友達が多いことと、孤独であることは相容れないモノではございません。

でも、一人でいる事に対する耐性が弱いんですな。今の日本の若者は。

だから群れて行動するようになる。

そこではみんな均一化。突出してはいけないのです。

突出してしまうヤツは、「KY」のレッテルを貼られてハズされてしまう。

ハグれもんは蚊帳の外です。

それぐらいならまだいい。

今の日本なら「KY」はイジメの対象になってしまいます。

「KY」に怯えて人は群れ、空気を読むことに徹して、自分の本音に気づけずに自我を埋没させてしまう。

それこそ本当の孤独なんじゃないですか?

自分の心に耳を傾けることも必要じゃないんですか?


ポール・オースターの「孤独の発明」において、作者は、キャラ作りに徹する事で、本当の自分をもたない父を「孤独」とよんだ。

彼の心はいつもどこか別の場所にあった、と。







独居の力。

それが今の日本人に一番必要なんじゃないでしょうか。




なんつって〜〜〜ヌ









No.73|Comment(5)Trackback()

まじで調子に乗ってきた。でもこれ、自分用ですから。

2007/11/01(Thu)13:57

自己投入することで、自己愛が深まる事は昨日言いました。

本を読むという行為は自己投入に一番適していると思います。

本を書く人達は、大抵自分よりも論理的で、自分よりも本を読んでいて、自分よりも賢い。

なので、その人のことを尊敬しやすいのです。

尊敬、憧れの念は、自己投入には必要不可欠な要素です。

あの人のようになりたい!と思う事が自己投入なのですから。



そこで、一番自分に適した本を選ぶ方法について調子に乗って書きます。

まず、表紙の題名に引かれて本をとるまでは、誰でも一緒です。

そこで、本選びのうまい人は、まず背表紙の裏あたりに書いてある、著者のプロフィールを読みます。

そいつがどっかの大学の偉い教授だったり、有名起業の社長だったりしたら、即尊敬できますよね。

次に、文章のレベルについて。

知識がいっぱい詰まってる文章は、得てして難解な文章になりがちです。

しかし逆にあまりにも読みやすい文章では、自分の知識や論理力は高まりません。

なので、適度な読みやすさの本を選ぶのが良いのです。




その方法として挙げられるのが、必ずまえがきを読むことです。

まえがきの文章を読んだときに、その作者の像が現前にビジュアライズされるのかが重要です。

その作者が尊敬できるのか否かで、本を買うか否かが決定します。




はー、今日は午前授業だったぜい。車がないから、町の北洋で口座つくろっと。いってきま

No.71|Comment(2)Trackback()

人生は自己愛の深化

2007/10/31(Wed)21:19

はいつづきません。あしからず。

さっきのおれは今のおれじゃないですから。変身しました。





今回のニッポンの教養、ゲストは精神科医の斉藤環さん。

この人、ひきこもりを治す仕事の傍ら、サブカルチャー批評(!!!)もやってのけているんです。

彼はオタク文化を研究しているので、ひきこもりを治す反面、ひきこもりはとても大事だとも公言しています。



(この表紙のフィギュア、村上隆の作品じゃん!!)


「ひきこもり」とは状態を示すワードであって、決して病名ではありません。

ひきこもりは社交性がない、ヤツらは社会のゴミだ、なんて言うけど、とんでもない。

なぜならば、ひきこもりの時期というのは自分の内面への意識が高まる重要な期間であるからです。

単に社交的であるだけでは、内面の深さが足りなくて、カラッポな人間になってしまう。

話していてもなんのネタもない、シリアスな話のできない人はとってもつまらないです!





ほえー

人生は自己愛の成長の過程
       byハインツ・コフート

ですって!

なるほど!!




ええと、例えば、ある異性に恋をします。

それは、その人を好きになった「自分」が好きなのではないのか?

自分ってなんてやなヤツなんだ・・・・って言っても、そうやって言っている「おれ」が好きなんじゃないのか?

結局は自分への愛につながるんです。

つまり、そうやって自己投影を繰り返して、自分への愛を深めることが、人生において最も大事なことなんです。




ひきこもりでも、本も読まない、映画も見ない、何もしないタイプと、そればかりに熱中するタイプとに分かれます。

ぼくはもちろん後者であって、そのタイプのオタクの人は大好きです!(なんとかマニアみたいな)

しかし、前者の場合、自己投影する対象が無いために、自信やプライドがどんどんマイナス方向へ進んでしまい、しまいには自殺や事件などを引き起こしてしまうケースにもつながりかねない。そのために、治療する必要があるんですね。




ぼくは、前にも書いたけど、本を読むのも人とおしゃべりするのも等しく「対話」と呼べるのではないかと考えます。

対話は、相手の感情、考え方を自分にトレースする、つまり相手と同化することであり、そうすることで「人の気持ちがわかる能力」を高めることができる。

この能力は養老孟司さんも言っていたとおり、人間にとって一番重要なパラメータです。

相手の気持ちがわからないと、自分の言いたい事も伝えられない、コミュニケーションを図れない。




じゃあ、本を読んでばかりのオタクはコミュニケーションがうまいのか?ということになるのだが、そうでもない気がしますね。

なぜなら、彼らはおしなべてプライドばかり高いが、そのくせ自信はとても低いからです。

(僕はその真逆で、自信満々なくせにプライド0です〜)




そしてまた、本を読むという行為は、得てして出力よりも入力のほうが、その情報量が圧倒的に多い。(対しておしゃべりは入力出力が同量かつ同時に起こるダイナミックな運動です。)

人の気持ちがわかっても、その人に何を話せば良いのかがわかる訳ではない。

なので、出力のパワーというのも必要なのです。

そのため、このように文を書いたり、人とおしゃべりすることは、出力をうまくすることにおいて、とても重要な行為なのです。




自分に自信を持つ、自分を好きになる。そうすることで世界は開けてくる。そのためには対話はとても大切だ。


だからコメント大募集!!!


なんつって

No.70|Comment(3)Trackback()

今を生きる

2007/10/31(Wed)13:50

「今を生きる」ことができない人間でね、ワタシ。

常に「未来を生きる」人間なのです。

うわ、なんかカッコよさげに聞こえますがご安心ください。全く調子に乗ってるつもりはございぁせん。

むしろ、男としてとてもダサイ生き方だと感じております。



だって、男は「酒と女とギャンブル」と昔から相場は決まってるでしょう?

全部、刹那的な快楽でございます。

男は、「今が楽しけりゃそれでいい」のでございます。


そして、男たるもの、今という一瞬をいかにくぐり抜けるかで試される生き物であります。

サムライの決闘なんて、その最たるものです。

あんなん、超絶カッコいいじゃないですか!

今を生きているからこそできることですよね。



先のこと考えちゃう人は、きっと「そんなことやってもなんの得が?」とか抜かしやがる。カッコわるい。




ええ、そのカッコわるいのが僕です。

今を生きれません。


まず、なんといってもケチ!!ドケチ!!

費用と利益を天秤にかけ、しばらく吟味してからじゃないと、財布の紐は緩みません。

頭の中は「それを買ってなんの得が?」の連発です。

もーキリ丸もびっくりなドケチっぷり!!




つづく

No.69|Comment(0)Trackback()

メタモルフォーゼ

2007/10/29(Mon)23:30



僕は、「自分はこうこうこういう者です。」と説明することができない。というか、そうやって自己を定義化して自らの可能性を限定してしまいたくない。よく聞く「自分のことは自分が一番わかっている」という言葉は、死ぬ間際の人がフィジカルな意味合いで使用する分には理解できるが、一般の人には当てはまらない言説だと思う。




「各人がそれぞれ自己自身にとってもっとも遠いものである。」

ーニーチェ




自分の考え方や価値観なんて、毎日毎分変わるものだ。毎日何かに感化されてる僕にとっては、毎秒と言ってもいいぐらいだ。一ヶ月前の僕と、今の僕じゃあ、根本に持つ行動倫理がガラリと変わった。ベンサムの快楽重視の功利主義から、ミル寄りな功利主義、そっからぶっ飛んで今はモダンな構造主義でございます。世界の見え方が一変しました。


昨日のおれは、今日のおれとは全く違う。生物学的に言っても、自分の体を構成する原子分子は一年もすればスッカリ入れ替わってしまうものらしい。物質的にも自分という存在は、常に変貌を遂げている。






それでも端から見れば、普段となんら変わりないいつもの僕である。なぜか?
それは、人間性と価値観とは全くの別モノだからである。
人間性は感覚的、価値観は理性的。
だから、感覚的な自分を、理性でどうこうしようとしてもすぐには変わらない。



「きっぱりと決まった人間性というものは存在しない。父子関係の情のような、人体のなかにすでに刻み込まれてしまっているようにみえる感情でさえも、本当は制度なのだ。」

ーメルロ・ポンティ




理性を司るわたしは上にいて、下の感覚的な<わたし>を、操り人形の如く動かしている。
上のわたしはすぐにでも変化する存在だけど、下の<わたし>は変化が遅い。



<わたし>を、対峙する人間、状況、環境にうまくフィットさせてやる。
それがわたしの使命だ。




先生の前の<わたし>と友達の前での<わたし>じゃあ、声のトーン、目の開き、すべて別人のようだ。
そのときその場所での<わたし>はそれぞれ違う様相を見せるのはごくごく自然なことだ。みんな、無意識のうちに感覚的にやっている。
その事実を認識してやろう。




そして、意識的にやってしまおう!



今述べたように、<わたし>はとても柔軟な存在だ。
対話する人間の意識に深く入り込み、彼の世界を感覚的に感じ取る。
そうすれば、いろんなことが楽しめる筈だ。



<わたし>のメタモルフォーゼ。

No.65|Comment(0)Trackback()

Meaning in Music

2007/10/25(Thu)00:38

イマラチオ!!!!!!!!!

この世に観念しか存在しないんなら、それを社会によってむりやり食わされてるんなら、人生はイマラチオ!!!!






はい、また学校ちょっとサボっちゃって、

爆笑問題「ニッポンの教養」の前々回録画したヤツを観た。

内容は美術史のエライ教授のお話だったんだけど、

なんか、美術は哲学の影響を大いに受けるんだなぁと感じた。

例えば、絵画では、西洋における人間中心主義が流行った時代(それがいつかはわからないけど)には、<空間>に重きを置いた作風が流行ったが、その風潮の影響を受けない遠い島国の日本では、<時間>に重きを置いた作風がずっと主流だった。

音楽の分野でも、フィリップ・グラスが、仏教やサミュエル・ベケットの影響受けたり、あ~~日本のブラフマンはきっとなんちゃってだな^^;

えーーじゃ芸術は、文化的スタンスに影響されるのかいな???





ここで、「音楽には意味があるのか???」という、音楽批評家にとってはとても重大な問題が浮上してくる。

だって、音楽がただの「音」でしかないのなら、そこに哲学なり主義なりの「意味」を付加することは不可能なのだから。


fader11_2.jpg












FADER最新号に掲載されているbattlesのインタビューを引用しよう。


イアン・ウィリアム:「僕はそもそも、曲に意味があるという概念が理解できない。音楽に意味を関連付けることが理解できないんだよ。音楽は、振動とハーモニー、そしてエネルギーであって、ロジックや言語を超えたものだと思う。認識能力を超えたものだと思うんだ。」

タイヨンダイ・ブラグストン:「僕は逆に、音楽を言いたいことをつたえるための道具として考えてるから、音楽に意味を付け加えることに興味があるんだ。音楽に対してエモーションなつながりがあるんだよ。」

イアン・ウィリアム:「僕は想像上の深みより、表面に興味がある。これはモダンな考え方で、表面こそがリアリティという考え方。つまり”カンバスに描かれたペイントが絵である”という考え方なんだ。だから僕は、”音そのものが曲である”と考えてる。聞こえてくる音そのものが曲なんだよ。だから別れたガールフレンドについての曲とかは嘘っぽく感じる。僕の前の彼女が誰なのかなんてだれも知らないわけだし。」


おおー親愛なるtoeの山嵜さんもイアンとほぼ同じ事を言ったぞお。

イアンはポストモダニズムな考えですな。オタク文化も理解しそう。

要するに、イアンは音は音じゃん!!!!楽しめや!!!!って言っている。




よーし、ここで話は飛びまくって、言語と感覚のおはなし。

ソシュールの言語論では、日本語が母国語な人と、英語が母国語な人で見える世界がまったく違うものになると考える。

つまり、言語も感覚的なものということだ。








じゃあ、音は?????



アーティストたちは、確信犯的にではないにしろ、無意識のうちに自分の世界を音で奏でているのではないだろうか。




意味(感情)は、感覚的に、曲に付加されているのだ。







それを鑑賞して、そいつの世界観を読み取ろうとする行為、意味として文章化する批評家の行為は、至極まっとうな行為であると言えないだろうか。

構造主義的な立場からなら、感じ方は人それぞれ違うじゃん!!と言えるかも知れない。

でも、極めて客観的な文体なのになぜか作品の魅力を余す所なく表現する佐々木敦さんの文体を見ると、誰もが納得する見方っていうのがあるんだ!!と思わされてしまう。


ああああああ変な方向に行き始めたのでこのへんで。








No.60|Comment(0)Trackback()

文脈の理解と客観性の重視

2007/10/21(Sun)21:31

音楽の良し悪しは「好み」でしか片付けられない問題か????

というのが、ずっと僕が一番否定したかった命題でした。

なぜならば、僕がこんなにのめりこんで聴いている音楽をただの趣味の域に限定してしまいたくないからです。

音楽を聴き漁るというのも、もちろん勉強だ。かように思っております。

本日読了したこの「芸術起業論」は、そのような命題を否定しうるのにまさにうってつけの本でした。


single02.jpg











村上隆という人は、単純にオタク文化をアメリカに持ち込んだだけの人とは違います。

彼は、世界の歴史的文脈の中に自分の表現を位置づけることで、芸術家として成功しました。

つまり、ただ黙々と作品を作ったのではなく、フラットな視点で(客観的に)芸術の文脈を勉強し、それを「解釈」、「再構築」した作品を作り上げたのです。

例えば、マルセル・デュシャンの「泉」という作品だって、素人が適当に作った代物ではありません。

そこには、背後に大きなドラマが付加されていて、きちんと文脈を理解した作品なのです。

(でないと、展覧会に出品することさえ不可能じゃないですか!)

(((ちなみに、僕の尊敬するマンガ家大塚英志は村上隆が大っキライらしいです。複雑なり。)))





日本には、批評家という存在が、あまり根付いておりません。

しかし欧米では、批評家の地位はとても高いものになっています。

なぜなら、日本では「芸術は好みの問題」なのに対して、欧米では「芸術は客観性の問題」であるからです。

(だから、ジャン・デュビュッフェのアンフォルメルな作品が日本でウケ、逆にウォーホールのような歴史を再構築した作品が欧米では「革命」と称されています。)

まあ批評家の存在を引き合いに出すまでも無くここでひとつハッキリしているのは、芸術が深く根付いているのは欧米であって、非常に大きなビジネスとして確立しているのも欧米であるという事です。

個人の好みで片付けられてしまっては、芸術家は食べてはいけませんから。





要するに、芸術は客観的に批評することは可能であるということです。

皆が等しく理解できる芸術のメインストリームが存在しているのです。



このことは、いろんな分野のことに当てはまります。

オシャレだって、そうです。服のセンスの良し悪しは誰が決めるかったら、より服をたくさん見ている人、つまりスタイリストです。

もっと言っちゃうと、人間の良し悪しだって決められると思います。人は平等だとは決して思いませんよぼかあ。

でもそこには、それなりの論理と論拠は絶対に必要です。

ただ単に、ランクを決定するのは個人の好みでしかありません。客観性を重視するためには論理は必須です。







ここで音楽の話に飛びますが、僕も批評家になれるんじゃね?と思ったときがあります。

ジャパニーズインディーズシーンが一目脚光を浴びたとき、ぼくもその波に飲まれました。

Hi-STANDARDが筆頭としたメロコアブームでは、キャッチーさが第一とされてて、ぼくもメロディック、売れ線の曲を探し続けました。

今売れっ子のELLEGARDENなんかは、3枚目のEP「my own  Destruction」から知ってるし(てか持ってるし)

HAWAIIAN6は最初のアルバム「FANTASY」から知ってるし、the band apartは、2枚目のEP 「Eric.W」を買ったし、SHACHIはpower of life持ってるし、HOLSTEINは最初のEPから持ってるし、LAST ALLIANCEの前身バンドS☆CREATERSのベストアルバム買ったし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現在みんなやっとこ有名になった人たちですが、こんな昔から僕は目をつけてました!!!(自慢)

欧米の批評家、キュレーター、ギャラリスト、コレクター、画商なんかもきっと同じ気持ちで作品を買うんでしょう。(そして億単位の大きなマーケティングにつなげるんでしょう)








はーいここで、個人的に音楽の文脈と照らし合わせてアーティストを批評してみます。

ドラムを中心にしちゃいますが。。。

僕が人生で最も魂を揺さぶられたtoeは、欧米では通用しないと思います。

カシクラさんのドラミングは、アメリカ人には「なんてダラしのないスティックさばきだ!ファッキンジャップ!」と一蹴される気がします。

欧米なりの解体→再構築の仕方と、日本のそれとは、やはり守るべきトコと解体すべきトコのセンスが違うからです。ルールの違いです。

どちらかというと、欧米のほうがタイトさを重視したドラムが多い。日本のほうがルールを瓦解したドラムが多い気がします。

その点では、若手ですが、nhhmbaseなんかは、欧米でも通じる感じはします。オリジナリティもタダモノではない。ただ、キャリアが少ないので、バックグラウンドの物語性には欠けますが・・・。

envyなんかは、mogwaiが作り上げたスロウコアムーブメントと激情系ハードコアを織り交ぜた新しい「解釈」を提示して、世界のenvyとなることができました。

melt bananaなんかは鼻から日本で勝負する気は無く、早々にヨーロッパで活動しております。

竹村ノブカズ氏もそうかな?器が違いすぎるけど。






toeなんて、tortoiseに比べたらぜんぜん器ちいっちゃい事は理解しております。

大友良英、竹村ノブカズ、ジム・オルーク、イルミン・シュミット、カールハインツ・シュトックハウゼン、ジョン・ケージ・・・・・・・・・・・・・・

器のデカイアーティストなんて数え切れない程おりますが、それでも僕は、自分が一番感動したアーティストが一番大切な存在です。

toeは、僕の音楽遍歴の文脈にビッタリマッチしていたんでしょうね。






No.57|Comment(0)Trackback()

sort out information in my head

2007/09/26(Wed)00:31

なんかもう、5時間ぐらい部屋にあるあらゆるものを捨てまくりましたww

僕の部屋は、一見キレイに見えて、実は引き出しの中やクローゼットの中など、見えないところにギッシリという状態なのです。

だから、部屋がもつ情報量が過大で、イザというときにうまく活用しずらい部屋になってしまっています。

例えば、サイフもカードだらけの僕(O型)は、セブンイレブンに行っても、カードがあるのに出すのを忘れてしまう。というか、カードを持っていることすら自覚していない。

情報量が自分のキャパシティを上回っていて、なおかつ情報が整理されていない分、把握が困難になってしまい、適宜必要な情報を抜き出せないのです。

なんで、情報の絶対量を軽減せねば!!と思い、モノを捨てまくるわけでーーーございーますー




昔、茂木健一郎がまだあまりTVに出てなかった頃、彼の「脳整理法」という新書を読んだのですが、それにはこんなことが書かれてありました。

「たくさんの体験が関連付けられ、整理されてこそ、はじめて生まれてくる知恵もある」

ぼくも体験や考えをブログに書くことで、頭の中の情報が整理されていると感じるし、またそれと同時に興味の幅も広がり、多くの分野でハッとする瞬間にめぐり合えました。

茂木さん風に言うと「アハ体験」なんでしょうが、ウーっと考えることで、その事柄のシナプスというか枝葉というか、そういうのが網の目状に広がり、それが互いにリンクした瞬間がハッとするという体験なんじゃないかと僕は考えます。(説明ムズし・・・)

そして、その「アハ体験」は、そこから多くのシナプスが一気に広がる瞬間でもあると思います。

要するに、自分の考えを見つめ、整理することで、考え同士がつながる瞬間を捉えやすくなるということです。



最近一番売れている新書、「いつまでもデブと思うなよ」は、50キロの減量の成功談が書かれているんですが、その手法は「まずは食べたものを記録するレコードダイエット」から始まるそうです。

ぼくもこうやって体験を記録することで、smartな人間になれたらいいと思います。




調子ノンなよ~





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ファッショナブル

2007/09/12(Wed)20:09

Yahoo!ニュースより

「なりたい顔ランキング」、一位は沢尻エリカ

最悪です。

日本中の女性たちがみんな沢尻の顔になったら、一生結婚できません。

ちょうど昨日のバイトでも、SMAP×SMAPに出た沢尻エリカの話になって、

4人中3人が「性格は最悪だけど、顔は最高」という意見、1人が「どっちも最悪」という意見でした。

まあ、それがぼくなんだけど、・・・・・・・・・・・・・やっぱり趣味悪いのかなぁ。

pro-yuika.jpg










この堀田ゆい夏のほうが100倍イイべや!!!

でも、はやり顔ってあるよねー。

ちょっと前は確か、エビちゃんが一位でしょ?

時代に要請される美しさってのはやっぱり存在するし、絶えず移ろいで行くモノだと思います。

ダリのおっちゃんが、「ものごとはファッショナブルになった途端、寿命を制限される」って言ってたのもそれです。

その言葉にずいぶん考えさせられ、流行と芸術の関係を知りたいと思ったので、

鷲田清一の「モードの迷宮」を購入。

でもこれ、身体論っつって、あんまりそういうこと書いてないのね。

受験勉強で何回か出てきたことがあるんだけど、おもしろいと思った覚えがあったので買ってしまった。

鷲田さんは日本の臨床哲学の分野におけるパイオニアです。

臨床哲学ってワードは養老孟司さんの造語で、問題の現場にいってみて、そこから考える、フィールドワークを基本とする学問。

ようするに、研究室にこもって本ばかり読むのではなく、出掛けていって話を聞いて、考えるんですね。

「それだ!」と思いました。そう、やってみなくちゃわからない。前にも書いたけど、入力だけじゃなくて出力しなきゃ。

このインタビュー見て、すごい今考えてることを言い当てられたような気がしました。

http://www.carinavi.org/ja/career/365/

「偶然に身を開いておく」、そうなんだよ!

僕は、「常に目と心を開いて動け」を最近のモットーにしてたから、もう目からウロコ。

鷲田清一、カッコよしです!!!!

No.31|Comment(1)Trackback()

カルチャのチャチャチャ!!

2007/09/05(Wed)04:54

バイトでちょっとしたオードブルが出た日。

船山さんと男のカッコ良さについて語る。

「やっぱり自然体が一番」という結論に至った。

船山さんハイブランド好きなのに・・・・・ww


はいここからキモイ話題。どんどん読み飛ばしてー。文化についての自分なりに行き着いた解釈を発表。


・大衆文化(マスカルチャー)
みんなが楽しめればいいじゃん!!って姿勢。

・ハイカルチャー
本気で美(芸術性)を求める姿勢。

・サブカルチャー
前の二つの中間。楽しませるぜ、でもホントのカッコよさも探すぜ、ついて来れるやつぁついて来いって姿勢。


時代の流れとともに文化の受け入れられ方が変わってしまって、ほとんど死語になっちゃってる言葉かもしれないですね。すべての文化をこの三つにカテゴライズするのは不可能に近いのでして。でも「芸術ってなんぞや」って毎日哲学しちゃってるぼくにとっては重要な三語なのです。例を挙げると、直木賞はマスカルチャー(大衆文学)の賞、芥川賞はハイカルチャー(純文学)の賞です。難しいのがサブカルチャーでして。HIP HOPがいい例だと思うんだけど、広義に解釈するとマンガ、映画、ファッションがそれ。まー、ぼくがはっちゃきこいて聴いている音楽がその典型です。だから必死に意味を持たせようとして考えるんですが・・・・・。結局アイマイだなあ。

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input / output

2007/08/31(Fri)14:38

dali08.jpgダリ展見て、バイト行って、友人宅に泊まって、ラーメン食って、今に至る。


絵画に対しての素養も無いし、ダリについての予備知識とかもゼロで挑んだんだけど、

引き込まれた。

こいつの頭の中はどんな世界かなあと考えた。

書き手の気持ちになって鑑賞することで、感じるところが多くなった。

でも、そんなときやっぱり絵描きさんのほうが理解できるのであって、

ぼくら絵をまじめに書いたことない人には到達し得ない、共感があるんだと思う。

どんな技法を使っているのか、構図の決め方、色使い、やってみないことにはわからないことばかりで、

やったことある人のほうが遥かに書き手の心理に肉迫することが可能になる。

そしてより作品の魅力を存分に感じ取れるようになる。


ぼくもドラムをだいぶやったからこそ、toeのカシクラさんのドラミングのすごさが一層わかるようになったし、

toeを腹の底から楽しめるようになった。

もっとドラムをやればやるほど、まだ知らないキャシーのすごさがわかるようになるんだと思う。


芸術を鑑賞する(入力)ことに真摯に向き合うとき、(表現)出力することは必ずといっていいほど重要だ。


ダリは書物もたくさん読んだ。そして書物をたくさん書いた。

量子力学など多くの化学や宗教を学び、後期の作品にはそれをモチーフにしたものが多かった。

彼の入力と出力の情報量は人の何倍もある。

だから、確固たる独自の世界観をもつことが出来たんだ。




うーん、最近クラブサウンドよりなので、DJセットを買おうか迷い中・・・・。

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神言Ⅱ

2007/08/14(Tue)14:40

昼間は某銀行マン。
夜になるとDJになったり、ギターを掻き鳴らしたり。
またグラフィックデザイナーの顔をももつ。
育児もこなす。

っちゅートツテモ尊敬しちゃう人ISAIさん。のブログ(人生の指南書)から転載。


まー打ち上げでもコレを話し出すとウザくなるので黙ってたんだけど、音楽も含めたサブカルチャー全般って「対立」が前提だったりするワケじゃないですか(以下クドくなるんで興味ない人は飛ばしてくださーい)。古くは「モッズVSロッカーズ」とか、僕が十代の頃だと「メタルVSパンク」とか(笑)年寄り連中で花咲いた札幌CISCO昔話でも、90年代にクラブが全盛になった時に一斉に在庫からROCKが排除されたりとかね。「ROCKなんてダサい」って時代。でもその「対立」の「邂逅」がまたまたサブカルチャーのもう一つの本質でもあるワケで、そのCISCOも最近オンラインでROCKの販売を復活させたりとかね。細分化と包括の反復は特にカウンターカルチャーを気取る音楽においては大きな意味を持ってるワケです。

誰もが全てを簡単に受け入れられたら表現する事の意味はなくなると思うんです。コンセンサスが出来上がればそれはもうサブカルチャーじゃなくてカルチャー。それこそカルチャースクールで両ヒザそろえて先生様に教えてもらえたりするものだったりしちゃうわけです。僕個人もクラブなんて全盛期の90年代には全く行こうとも思わなかったし、踊りたいともこれっぽっちも思わなかった。テクノもハウスもぜーんぜん自分の中じゃないのと一緒だった。そのくせ「俺は人とはちょっと違うもんを聴いてるんだぜ」みたいなただ受容してるだけで変な特別意識を持っちゃってね。自分が受け入れられないものはあえて無視をキメこんだりしてさ。でもそんな自分も今クラブでアホみたいに明け方まで踊れたりするんだから人なんてわからんのですよ。だから「最善を尽くして」「待つ」ことに僕は意味があると思ってます。theSunだって誰にも振り向かれる音楽じゃないのは自分自信がよく知ってます。でも何らかの展望を持って続けてると少しづつでも振り向いてくれる人はいてくれる...自分の価値観の中で「違う」ものを消化できる人と、決して受け付けることの出来ない人っていうのはいつの時代でも変わらずにいるわけで、それはもうどうしようもないことだと思うのです。人を変えるなんてそう簡単にできることじゃない...でも、やるんです。だって、他にやることってないからさー




極論言えば、全部全部好きなモノにしてしまえばよいと思うのです。
キライなモノもあって当然。自分の価値観ブヨブヨになっちゃうってのもわかります。
でも、ぼかぁALL OKを目指したい。
そっちのほうが新しい発見が多いじゃないでーすか。

芸術の本懐は「否定」って言った人がいました。
つまり、「ひゃー!」ってなったときに自己の価値観の更新があり、既存の考えを否定され、塗り替えられる瞬間にこそ芸術の本質があるってゆー話。
まぁー全然そればっかが大切ではないと思うけど、やっぱそうゆう経験をたくさんしたいなあー。
毎日違う自分に出会いてぇなあぅぁあーーって思うのです。



今日の「ひゃー!!」

owls:  http://jp.youtube.com/watch?v=2pcJ11a0fQI&mode=related&search=

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